2018/05/24
外来をやっていると、患者さんからよく受ける質問があって、その一つに病名に関するものがある。
同じ精神科医師が見ているのに、どうして診断が違うのか。とか自分の病気(障害)にはいくつもの病名がつくのは何故なのかという質問はしばしばである。
私が研修医だった頃には、現在使われているようなICD分類などはなく、医師の様々な症状をもとに医師がその病気の全体像を「直感的」に見とって診断を行うことが通常だった。
今やそのような診断法は全く受け入れられない。
そのような診断法は「主観的、かつ曖昧」である。
臨床的に、科学的に共有されうる操作的診断法が主流となった。
今や、患者さんの内的な葛藤などに考慮を払いつつ診断するようなやり方は過去の遺物のようなものなのだ。
徹底してその外面的な症状に目を向けて診断を進めること。
このやり方を推し進めると必然的に診断名は多くならざるを得ない。
例えば、様々に不幸な幼少期を経て成人した人がうつ状態で外来を受診したとしよう。
そのような人の多くが、情緒的に安定せず、人とのコミュニケーションにうまくいかなさを感じているのであるが、ここまででも「気分変調性障害」「不安障害」「適応障害」「摂食障害」、診断者によっては「境界例パーソナリティ」「双極性障害」「広汎性発達障害疑い」の診断をつけるかもしれない。さらに落ち込み気分がひどくなり生活、仕事に支障を有するようになれば「大うつ病性障害」がつけ加わるだろう。
このような状況は、精神科医師の中でも理解できる人とそうでない人がいるくらいであるから、ましてやその事情がわからない患者さんに理解していただくのはほとんど不可能に近いのである。
どういうように説明をすることが、患者さんに理解してもらう一番良い方法だろうか。
最近読んでいる本の中で下記のような記述を見つけた。
あなたは動物園に来ていて、ある囲いの中にいる一頭の象の尻尾の側を見ている。一方で、囲いの反対側にも別の来園者がいて、その来園者はその象の顔の側を見ている。この時あなたたち二人は同じ一頭の象を見ている、ということは確かに正しい。しかし同時に、あなたたち二人は単に同じ象の異なる部分を見ているに過ぎない、ということにも私たちは同意するだろう。・・・「全く同じものを見ている」という語り方は、「全く同じものの異なる部分を見ている」ということを意味しているのだ。・・・「同じ」や「全く同じ」といった言い回しが緩やかで通俗的な意味で用いられるときはいつも、私たちは、同一の事物〜厳密な意味で同一の物事〜の異なる部分を指すために「同じ」という語を使っているのだ、と。
D.M.アームストロング 現代普遍論争入門
精神科を受診される患者さんの「困りごとの本体」というものがあるとすれば、それは現在の人間関係、社会状況、幼少期・思春期に作り上げられてきた反応のパターン(性格)、現在に強く影響を及ぼすに至った生育上のイベント(時にトラウマ体験)などなどが渾然一体となって形成された複合体である。
それが症状に表れたものこそが診断名となるのであるが、どの側面を見るかによって診断名が全く変化することもありうる。ただ、精神科医師同士であればそれが同じものをみているということは理解しているはずである。
多くの精神科医師は診断の奥に隠れた本体を把握し、その症状ではなく複合体全体をどう変化させていけばいいのだろうかと、考えながら日々の診療を行っていると思う。
このことを患者さんに説明して行くことはとても難しい作業である。
同じ精神科医師が見ているのに、どうして診断が違うのか。とか自分の病気(障害)にはいくつもの病名がつくのは何故なのかという質問はしばしばである。
私が研修医だった頃には、現在使われているようなICD分類などはなく、医師の様々な症状をもとに医師がその病気の全体像を「直感的」に見とって診断を行うことが通常だった。
今やそのような診断法は全く受け入れられない。
そのような診断法は「主観的、かつ曖昧」である。
臨床的に、科学的に共有されうる操作的診断法が主流となった。
今や、患者さんの内的な葛藤などに考慮を払いつつ診断するようなやり方は過去の遺物のようなものなのだ。
徹底してその外面的な症状に目を向けて診断を進めること。
このやり方を推し進めると必然的に診断名は多くならざるを得ない。
例えば、様々に不幸な幼少期を経て成人した人がうつ状態で外来を受診したとしよう。
そのような人の多くが、情緒的に安定せず、人とのコミュニケーションにうまくいかなさを感じているのであるが、ここまででも「気分変調性障害」「不安障害」「適応障害」「摂食障害」、診断者によっては「境界例パーソナリティ」「双極性障害」「広汎性発達障害疑い」の診断をつけるかもしれない。さらに落ち込み気分がひどくなり生活、仕事に支障を有するようになれば「大うつ病性障害」がつけ加わるだろう。
このような状況は、精神科医師の中でも理解できる人とそうでない人がいるくらいであるから、ましてやその事情がわからない患者さんに理解していただくのはほとんど不可能に近いのである。
どういうように説明をすることが、患者さんに理解してもらう一番良い方法だろうか。
最近読んでいる本の中で下記のような記述を見つけた。
あなたは動物園に来ていて、ある囲いの中にいる一頭の象の尻尾の側を見ている。一方で、囲いの反対側にも別の来園者がいて、その来園者はその象の顔の側を見ている。この時あなたたち二人は同じ一頭の象を見ている、ということは確かに正しい。しかし同時に、あなたたち二人は単に同じ象の異なる部分を見ているに過ぎない、ということにも私たちは同意するだろう。・・・「全く同じものを見ている」という語り方は、「全く同じものの異なる部分を見ている」ということを意味しているのだ。・・・「同じ」や「全く同じ」といった言い回しが緩やかで通俗的な意味で用いられるときはいつも、私たちは、同一の事物〜厳密な意味で同一の物事〜の異なる部分を指すために「同じ」という語を使っているのだ、と。
D.M.アームストロング 現代普遍論争入門
精神科を受診される患者さんの「困りごとの本体」というものがあるとすれば、それは現在の人間関係、社会状況、幼少期・思春期に作り上げられてきた反応のパターン(性格)、現在に強く影響を及ぼすに至った生育上のイベント(時にトラウマ体験)などなどが渾然一体となって形成された複合体である。
それが症状に表れたものこそが診断名となるのであるが、どの側面を見るかによって診断名が全く変化することもありうる。ただ、精神科医師同士であればそれが同じものをみているということは理解しているはずである。
多くの精神科医師は診断の奥に隠れた本体を把握し、その症状ではなく複合体全体をどう変化させていけばいいのだろうかと、考えながら日々の診療を行っていると思う。
このことを患者さんに説明して行くことはとても難しい作業である。